人間の脳が感じる違和感を意図的に狙ったもので、現在では心理表現のひとつとしてごく一般的なものになっています。
今回は瞳に映るハイライトのナゾのひとつ、この敢えて“描かない”という表現がなぜ心理描写をともなうのかについてゆる考察いってみましょう。
この絵はハイライトがない状態とある状態を比較できるよう並べてみたもの。
こうして瞳にハイライトを描かないだけで、キャラクタが放心状態だったり、催眠状態だったりするように見えます。相手に興味がないなど冷たい表情に見せるときにも使われ、文脈次第で様々な心理状態を表すことができる印象の強い手法です。
しかし、単にハイライトを描かないだけでなぜそうした心理状態を表現することができるのか、という理論についてはいまひとつはっきりしていません。
目の焦点が合っていないことを表す、という説明も見かけますが、目の焦点が合っていないからといってそれがハイライトの消える原因になるかといえばちょっと因果関係がない気もします。
そんなわけで例によって私見ですが、私なりの仮説をひとつたててみました。
ちょっと長文になっちゃいますが、ハイライトの本質に触れる問題でもありますからしばし遠回りにお付き合いを。
前回の記事を前提にしないと分かりにくい部分があるかもしれません。
こちらもあわせて読んでみてください→瞳に映るハイライトの正体(前回の記事)
まずはちょっと視点を変えて逆方向から考えてみます。
ハイライトを描かないことで表現できるものがあるとすれば、それは現実にハイライトがない状態とも深く関係があるはず。
それじゃ現実世界でハイライトが消えるのはどんな場合なんでしょうか。
まずハイライトが現れないような気がする状況として思い浮かぶのは周囲に光源が全くない状態です。
当然この状態ではハイライトは現れませんが、同時に光源がなければキャラクタの顔も真っ暗になって見ることは出来ません。これは除外してよさそうです。
逆光になると一番強い光源はキャラクタの背後にあるわけですから、瞳に映ることはありません。
しかし、逆光という条件はハイライトに劇的な影響を与えます。
ハイライトはキャラクタが見ている方向の景色が瞳に映りこんだもの、というのは前回の記事の通りですが、キャラクタが逆光であるということは、ハイライトを形成するその景色にとっては順光であるということ。一番強い光源そのものが映らなくても、周囲の環境が強いハイライトとなって瞳に映ります。
さらに人間の目はキャラクタの顔が逆光で暗ければ、そこに露出を合わせようとして光に対する感度を上げてしまいます。自ずとハイライトは明るくはっきりと見える結果になるでしょう。カメラでも昨今は顔を認識して露出を変えますから、同様の結果になります。
逆光でハイライトが強くなることはあっても、消えることはありません。むしろ、ハイライトを強調して意思の強さを表したい場合など、逆光を選択するのは有効であるともいえます。
こんな状況ではどうでしょうか。
太陽の下まぶしさを避けようと腕をかざすと、目の周囲には腕の影が落ちて光があたっていない状態になります。
くっきりと現れた影の中の瞳に、ハイライトを描き込むべきでしょうか。
結論からいうとそれでもやっぱりハイライトを描き込まないと違和感はでてきます。
このような影が現れるには太陽や撮影用の照明といった十分に強い光源が必要ですが、強い光源は周囲の景色を明るく照らし、これまたはっきりしたハイライトを形成してしまうでしょう。
腕よりも広い影を落とすもの、例えば麦藁帽子や建物などの大きな影の中でもキャラクタの顔がある程度の明るさで見えているなら程度の差こそあれ、結果は変わりません。
ただしこの場合、腕の影はどうなっているんだろうという疑問は出てきます。
これは鏡面反射の特性に関わるもので、瞳のハイライトに限らずピカピカの表面を持つマテリアルには普遍的に言えることですからちょっと詳しく書いておこうと思います。
例えば、手鏡に影が落ちるよう手をかざしてみるとどうなるでしょうか。
近くに鏡があれば是非実際にやってみてください。
影というのはそもそも拡散反射やランバート反射でしか起こらない現象で、光を正確に反射する鏡面反射では影そのものが形成されないのです。
先の絵では、腕をかざして太陽をさえぎっても影は肌部分に落ちているだけで、目には落ちていないことになります。もちろん目は完全な鏡面反射ではありませんから、拡散反射の割合に応じて暗くはなってるんですが。
こうして見ていくと逆光であれ影の中であれ、光の具合で瞳のハイライトが消えるなんてことはどうもなさそうです。目が細い、小さいといった要因でハイライトが目立たないことはありそうですが、目を大きく描くことの多いキャラクタイラストではこれも除外していい条件でしょう。
半球面の瞳は広い範囲をカバーする鏡です。顔に光があたる状況であれば、その光源がわずかなものでもハイライトとして映し出してしまいます。
瞳にハイライトがない状況というのは、絶対じゃないとしても殆どないのです。
さて、ここまでを踏まえて本題のハイライトを描かない表現の正体について考えてみます。
飽くまで仮説ですから、そうかもしれない程度にゆる~く御覧ください。
現実世界には顔のように見えるもの、というのが意外と少なくありません。
天井の木目が顔に見えたり、カニやカメムシの背面に顔の様な模様が浮かび上がったり、電気製品の機能に基いたデザインがたまたま顔に見えたり。
しかし目の部分が鏡面反射でハイライトを映しているという条件がはいると、そんな物体は極端に少なくなってきます。
ひょっとすると、人間の脳は同種族の顔に見えるものが本当に人間であるかどうかの判断にハイライトを利用してるんじゃないでしょうか。
さらに瞳にハイライトが入っていないのによくよくみても人の顔、なんてものがあるとすれば、それは人形であったりあるいは涙の分泌がとまった遺体であったりということになります。
人間がまだ野山で生活していた頃、遺体がある場所には相当な危険があったでしょう。
逆に予想外の場所に意思のある顔を見つけた場合、というのも危険です。誰もいないはずの暗がりにハイライトの入った瞳が・・・ぞっとしませんか?
顔に見える形状を視界内に見つけたとき、そこに意志があるかどうかを瞬時に判断する。そのためにハイライトは有力な視覚情報のひとつとして機能していると考えられます。
ハイライトがない顔を見るとき、人間の脳はそれが生きた人間ではないと判断する・・・つまり魂がない、意識がないものと認識しているのかもしれません。
ハイライトがない瞳になんとなく違和感や恐怖感を感じるのは、そのあたりに原因があるとすればつじつまもあってきますがどうでしょうか。
「目が死んでいる」というのは実に的を得た表現です。
放心状態や催眠状態を表すのに、魂がない状態を描くことで近似とする。
誰かが無自覚に始めたそんな表現が、重要な視覚情報を使っていたために見る者の印象に強く残り、一般的な手法として定着したのかもしれません。
どこまでいっても仮説ですから真偽はわかりませんが、ハイライトは殆どの条件で人間の瞳の中に現れ、単に物理現象の枠を超えてコミュニケーションの重要な要素となっているのは確かです。
絵を描く上では光源がどうこうなっているからハイライトを描くべきかどうか・・・なんて面倒なことを考えず、受け取る印象のままにハイライトを描けばいいのでしょう。人間の脳は瞳にハイライトがなければ違和感を感じるようにできている、それは間違いないのですから。
ハイライトは、キャラクタに意思を吹き込む現代の画竜点睛なのです。